2021-02-24 第204回国会 衆議院 財務金融委員会 第6号
大久保利通は富国強兵という言葉を残されました。今、少子化、災害、それからコロナ、外圧、そして温暖化と、本当に多岐にわたる国民の大きな諸課題が山積しております。そういう中で、あの大久保利通が残した言葉に当てはめるならば、国を富んで、富国強衛かなと、一言で言うとそう思います。そういう時代を、安心して、国民の生命そして生活を守り抜くための施策を打っていく必要があるというふうに感じています。
大久保利通は富国強兵という言葉を残されました。今、少子化、災害、それからコロナ、外圧、そして温暖化と、本当に多岐にわたる国民の大きな諸課題が山積しております。そういう中で、あの大久保利通が残した言葉に当てはめるならば、国を富んで、富国強衛かなと、一言で言うとそう思います。そういう時代を、安心して、国民の生命そして生活を守り抜くための施策を打っていく必要があるというふうに感じています。
麻生大臣の高祖父であられます大久保利通公、先ほどの大平先生の話なんかも、歴史に学ぶという話が野田先生からもありましたけれども、一度歴史に学んでみたいというふうに思っています。 そういう中で、当時の大隈重信公が、予算編成をするために渋沢栄一公を当時の大蔵省に入れます。
横幅もさることながら、奥行きが非常に深い、いかにも重々しい雰囲気がある机でありますけれども、これは何と大久保利通の机だそうであります。では、なぜそれほど奥行きが深いかというと、サーベルが届かない、この長さと言われますけれども、こうしたことを聞くときに、まさに総務省の持っているその歴史、重みを感じたものであります。 考えてみれば、大久保利通は初代内務卿でありました。
確かに、考えてみると、海外に発信するというのは言うはやすし行うはかたしでありまして、そもそも一つの、例えば我が鹿児島には尚古集成館という、明治維新に至った経緯、その偉人たち、島津斉彬公あるいは西郷隆盛公、大久保利通公等々多数の人材を輩出したわけでありますが、そうした功績を世に発信する施設がございます。
その根拠としては、例えば、IMFを中心としたグローバル金融セーフティーネットのさらなる強化ということをうたったこと、そして、インフラが成長と繁栄の原動力だとして、質の高いインフラ投資に対する原則をまとめたこと、三点目は、麻生大臣と同じく、大久保利通公の血を引く牧野伸顕公を曽祖父に持つ武見敬三先生、私も敬愛するお方でありますけれども、議員でありますけれども、ライフワークとして取り組んでおられるグローバルヘルス
河野太郎さんと関係ない土佐の方で、河野敏鎌さんという方が初代の大臣ということで、大久保利通さんに通じている方のようでしたけれども。この農商務省が大正十四年まで続いて、一九二五年の四月一日に商工省と農林省に分割されました。そして、戦時中、一九四三年に、戦時中なので、商工省の一部とこの農林省がまたくっついて農商省というのができて、商工省は廃止されて軍需省になったという経緯があります。
ちなみに、大久保利通公の子息であり、麻生副総理の曽祖父でもある牧野伸顕翁は、政界引退後に太平洋戦争を凝視し、戦争に至った原因として、国民の政治への関心の低さ、政府監視の不十分さを指摘したそうです。 その史実を総理の所信を契機に学んだことを申し上げ、あわせて、週末に日本上陸が予想される超大型台風十九号への政府としての備えに万全を期すことを求め、代表質問とさせていただきます。
○国務大臣(麻生太郎君) 岩倉使節団が初めて二年にわたって海外に、伊藤博文公、大久保利通、いろんな人を連れてあのとき回って、そのときに、図書館、議事堂、中央銀行、それから駅、鉄道の駅等々をみんな見たという記録が残っているんですけれども、公文書館は入っていませんものね。見損なったんですよ、あの人たちが。最大の罪はあそこにあると思いますけどね。
これが廃藩置県直前に、徳川最後の将軍である慶喜将軍が江戸の薩摩藩へ訪問のときに黒豚を料理として出して、慶喜さん、これ食べて実に美味であると、おいしいと、この豚をずうっと食べさせてくれということでわがままな要求があって、京都屋敷も、薩摩藩、自分の屋敷の置いてあったのも全部慶喜さんに持っていかれて、更にそれを要求されて応えた小松帯刀さんの手紙が大久保利通に送った手紙があるんです。
麻生大臣は、あの明治維新の偉人、大久保利通の御子孫とお聞きしますが、最後の最後まで麻生大臣をかばい続ける安倍総理に、大久保利通の盟友、西郷隆盛、西郷どんの最期の言葉を拝借して、御自身の意思をしっかり伝えるべきではないでしょうか。晋どん、もうここでよかと。
こういう問題意識を我々は持っているんですけれども、時間もないので、大臣から、先ほど、役所の御答弁はお読みいただくとわかるんですけれども、やはり日本をしょって立つというお立場にならんとされる方なので、そのお気持ちから、やはり、為政清明という大久保利通公の言葉もございますし、先ほど申し上げたとおり、我々は、あと三十年、四十年生きられるかわかりませんけれども、女性の方が長生きなので多分私よりは長く生きられると
同行した大久保利通始め皆、絵画館、図書館、いろんなところへ行ったんですけど、公文書館とか行っていませんもんね。記録を調べられたら分かると思いますが、公文書館には行っておらぬのですよ、岩倉具視一行は。したがって、公文書館というものの存在を知らなかったというのが多分、後々残っていった最大の理由はこれだと思っております。
そうした大改革をなすことができたのは、もちろん、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允といった政治リーダーの存在も重要ですが、社会のあらゆる分野で改革を支え担った市井の人々の数限りない努力の積み重ねがあったからだと私たちは考えています。 幕末の思想家であり、同時代の精神的指導者、教育者でもあった吉田松陰は、こうした地方の改革の積み重ねの大切さをこう表現しました。
だから、俺の祖先の大久保利通も行っていますよ、伊藤博文も行っている、みんな行って、公文書館行ったという記録が残っていませんから、見なかったんですよ、多分。だから、公文書館というのは、明治以来この方、余り重要視されてこなかった。
私の先入観が悪かったんでしょうけれども、僕は、日本の明治維新に活躍した西郷隆盛だとか大久保利通だとかあるいは坂本龍馬だとか、ああいうごつい人といいますかすごい人を先入観で持っておったんです、フン・セン首相というのはそういう人かなと思って。御自宅へ訪問してみましたら、今ちょっと太られましたけれども、ちょっと痩せ型で、おとなしい大学の先生というような感じで、あれっというのを記憶しております。
「為政清明」、明治の元勲であり、我が国の基本的な枠組みをつくり上げた大久保利通は、この言葉を座右の銘としておりました。大久保は、この言葉を通じて、現代に生きる私たちにも、政治に参与するものは、心が明るく、澄んでいなければならないと訴えているように思います。大久保のこの姿勢こそ、政治家にとって、また法務大臣として、基本としなければならないものと考えております。
為政清明、明治の元勲であり、我が国の基本的な枠組みをつくり上げた大久保利通は、この言葉を座右の銘としておりました。 大久保は、この言葉を通じて、現代に生きる私たちにも、政治に参与する者は、心が明るく、澄んでいなければならないと訴えているように思います。大久保のこの姿勢こそ、政治家にとって、また法務大臣として、基本としなければならないものと考えております。
郷土の大先輩であり、麻生大臣の高祖であられる大久保利通公は中央集権をつくられましたが、その当時は国難のため力を結集する必要があったので中央集権、私は大きな意義があったと思います。ただ、では、このまま東京一極集中の日本の形が日本全体の国益にかなうかというと、私はそうではないと思っております。
今回、一般質疑であり、若い将来世代のためにも、財政健全化の観点から総論的に、同じ九州の大先輩であられる、また鹿児島の偉人大久保利通公を高祖に持たれる麻生大臣に質疑をさせていただきたいと思います。 さて、一口に財政健全化といっても、解決すべき課題は多岐にわたるのは言うまでもありません。
西郷隆盛が大久保利通を教えて、大久保利通が日本銀行を創設した松方正義、そして私立学校をつくった村田新八、東郷平八郎、大山巌とか、黒田清輝、黒田清隆とか、たくさんの人材を輩出した。その源は水戸にあるということだけちょっと申し上げたいと思っています。
書いたのが大久保利通なんですよ。これが初代の内務卿ですよね、内務大臣。 私はたまたま最後の自治大臣と最初の総務大臣をやらせてもらいまして、そういう関係ですから、ずっと私の一つの政治上の大スローガンとして信奉してきた。また、おまえ好きな言葉を言えと言われますと、私は、信なくば立たず、これはみんな言っていますけれどもね。
つまり、蓮舫大臣は内務卿の大久保利通ではないということでありまして、何もかも全て消費者庁でできないからそれがおかしいという表現は、これは全く設置法を読んでいないとしか思えない、そう私は考えるのでございます。 そういった総合調整官庁であるという性格を踏まえまして、風評被害についてまずお尋ねをしたいと思っております。